夏季オリンピック(五輪)に過去31回で計109人の道産子選手が出場した。北海道日刊スポーツ新聞社の出身市町村調査によると、増毛町は56年メルボルン大会金メダルの池田三男らレスリングで4人を輩出した。現在の人口比で1060人に1人が五輪選手と、道内市町村トップとなる。小さな漁師町がレスリングの一時代を築いた背景を探った。

日本海に面する増毛町から4人のオリンピアンが巣立った。いずれも増毛高レスリング部出身。56年メルボルンでは浅井正、池田三男、桂本和夫の3人が出場し、池田はフリー・ウエルター級で戦後道産子初の金メダルを獲得。60年ローマでは佐藤多美治が続いた。主要産業のニシン漁が衰退していた時期に、町に活気を与えた。

始まりは熱血男の帰郷だった。50年代初め、中大レスリング部初代主将だった松江喜久弥は、大学を卒業し増毛町に帰ると、増毛高に毎日通い「レスリングやらないか」と生徒に声をかけ続けた。同じ校舎だった小学校の体育館の隅に柔道畳を敷き指導した。創部メンバーの池田と佐藤義さん(85)は、年下の女子に見られる恥ずかしさを押し殺して、海パン一丁でぶつかりあった。佐藤さんは「畳だから顔に傷がついて親戚から『ケンカしてんのか』とよく聞かれた」と振り返る。

部員は2人から徐々に増えていった。練習を休めば家に電報が届く。冬場は窓から雪が入る環境でも猛練習を積んだ。旭川協会の南利昌名誉会長(83)によると「浅井さんは小さい頃にボートをこいで、釣りに行ってたそうですよ」。北海道の大自然は頑丈な体作りの一因にもなった。選手たちは全国大会で実績を積み、卒業後は松江氏の母校・中大に進みさらに成長して世界に飛び出した。

「増毛といえばレスリング」と言われる一時代を築いたが、町の人口減少により衰退した。増毛高も11年に閉校。現在は少年団も野球、サッカーなどで、レスリングはない。町役場職員は「あの時代を知っている人は多い。またレスリングで町を盛り上げてくれる選手が出てくれればうれしい」。人口4242人の町は、再び五輪の火が灯る日を待っている。